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佛日寺境内墓地

佛日寺境内墓地 新区画オープン
閑静な住宅地の中にあり、歴史ある寺院だから安心。環境・立地条件が整った墓地です。
2008年4月1日より先行予約受付中

駐車場・休憩場・トイレ設備も充実です。

園内バリアフリー設計です。(※一部区画を除く)

お墓・墓石の価格表

墓地のみ分譲も好評につき受付中。お気軽にお問い合わせください。

デザイン墓など様々なお墓をご提供させていただきます。

石のいがやオリジナルデザイン墓です。

雅〜みやび〜 MIYABI 観音〜かんのん〜 KANNON 心〜こころ〜 COCOLO 寿〜ことぶき〜 KOTOBUKI

基本情報

無縁塔  
名称 佛日寺境内墓地
開園 2008年4月1日(新区画)
経営主体 宗教法人 佛日寺
宗旨・宗派 不問

所在地

電車・交通アクセス

ご来場のお客様は必ず佛日寺駐車場に駐車をお願いいたします。

佛日寺は北摂麻田藩主の菩提寺です

麻田藩の歴史

寺の庭麻田藩は、大坂を取り囲む大名領のひとつで、大坂南部の狭山藩とともに1万石余の外様大名である。青木氏は戦国末期美濃国にあり、初代藩主の父、重直は初め土岐頼藝に仕え、のち斎藤道三に属して軍功があった。斎藤氏没落後、織田信長に従い、のち豊臣秀吉に仕えた。文禄3年(1594)10月、摂津国豊嶋郡の内1400石の地を宛行われ、同4年9月にまた摂津国兎原郡内で360石余の加増があった。重直の子が一重であり、実質上の麻田藩の初代である。一重は美濃国に生まれ、初め今川氏直に仕えて功あり、氏直没落、一時遠江国掛川に退いたが、元亀元年(1570)、徳川家康に仕えて戦功をあげた。同3年冬の三方ケ原の敗戦によって家康のもとを去り、丹羽長秀に仕え、長秀の死後、豊臣秀吉に従った。天正13年(1585)、豊嶋郡内に采地を受け、また伊予・備中の加増があり、1万石余を領した。秀吉の没後は秀頼に仕え、大坂七手組の頭となった。慶長19年(1614)の大坂冬の陣には大坂方に与し、翌元和元年(1615)1月、大坂方の和議礼謝の使として駿府に下向したが、帰路拘禁された。この後、大坂の落城を聞いて剃髪、幽居されることを望んだが、家康に再仕することになり、同7月、父重直の采地12000石余を領し、豊嶋郡麻田に住んだ。のち、弟の可直に2000石余を分与した。

2代の重兼は、隠元が来日して宇治に黄檗山万福寺を建立した時、建立奉行をつとめ、承応3年(1654)、豊嶋郡東畑村に仏日寺を建て、菩提寺とした。

青木氏はその後、重成・重矩・一典・一都・見典・一新・一貫・一貞・重龍・一興・一咸・重義と続いて、転封されることがなかった。明治2年(1869)6月に上知して麻田藩知事となり、のちに子爵を授与された。 なお、一貞の寛政年間(1789〜1800)には藩校「直方堂」を創設し、漢学を教授、一興の天保年間(1830〜1844)には習字・算数・礼法が加わり、明治22「文武局」と改まり、文武両面にわたって教授した。 藩財政は近世中期以降、窮迫に陥り、近郷の豪農や大坂町人からの借用を受け、藩札も発行したが、幕末期には藩財政の管理も支配下有力領民の手に移った。

麻田藩主累代の墓

麻田藩の墓佛日寺の南林墓地に、初代からの16基の墓塔が完全な形で樹林にかこまれ悠然とし、麻田藩主累代の墓として、ふさわしい景観を形づくっている。この墓塔は重制無縫塔(基礎・竿・中台・請花・塔身の五部からなるものを言う)の形式で、花崗岩が使われている。これは鎌倉時代前期に宋から伝わったもので、その後各地で禅宗の開山塔や、歴代塔・一般僧侶の墓に多く用いられているが、池田市内では重制無縫塔の形式をもつ墓は他にない。昭和53年、文化財として史跡第4号に指定される。

平成7年1月17日、震災により倒壊し、同年9月池田市教育委員会の指導により修復する。

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